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神戸連続児童殺傷事件の被害者家族インタビュー

酒鬼薔薇聖斗の被害者家族神戸連続児童殺傷事件の7年後、2004年(平成16年)に関西テレビで放送された『ザ・ドキュメント』は少年Aの仮退院と被害者家族の7年間が綴られていました。

罪の意味 ‐少年A仮退院と被害者家族の7年‐

 1本の電話が医師・土師守さんのところにかかってきました。息子を殺した少年が医療少年院から仮退院したことを告げる電話でした。

 

 神戸市須磨区友が丘、7年前の5月24日、タンク山と呼ばれる山で小学6年生の男の子が14歳の中学生に命を奪われました。殺された男の子は土師淳くん。淳くんには2つ年上の13歳の兄がいました。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「どうしても寝る時に思い出したりするので・・・まぁ多少寝つきが悪くなった程度ですね。部屋の電気を消したら、ふと出てくるっていうか・・・夢でも出てくることが、まぁ結構あるから、なるべく夜遅くまで起きて・・・」

「だから睡眠はすごい嫌いなことのひとつですね」

 

 兄の名前は土師巧(はせさとし)今、20歳です。5月24日土曜日、あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気でした。祖父のところに行くと出た弟が帰って来ず5時頃になり、心配になってきた自分は自転車で探しに行きました。2~3時間探して、ふと「戻っているのでは」と思って家に帰りましたが、弟は帰っていませんでした。父たちが探しに行っている間、家で「なんでこんなに遅いんやろう」そう思いながら待っていました。事故とか嫌なことは考えないようにしていました。

 5月27日火曜日、学校に行こうとマンションの下まで降りたところで父が厳しい表情で「今日は学校に行かなくていい」と呼びに来ました。その時の表情を見て「何かあった」と感じました。でも、それ以上のことは考えたくありませんでした。

 

 弟の行方がわからなくなった3日後、兄の通う中学校の校門で首を切られた弟の頭部が見つかりました。その後、弟の体はタンク山のアンテナ施設で見つかりました。顔は傷つけられ、口には酒鬼薔薇聖斗と書かれた挑戦状が残されていました。

 

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】

  • 事情聴取されている時のご家族の様子っていうのはどんな感じでしたか?

「奥さん、これについては約2週間ほとんど話も聞けない状態。お兄ちゃんの巧くん、これについても閉じこもり状態で話を聞けない。だから先生(父・守さん)が代表して、しばらく落ち着くまでは私が話すから、女房・子どもには色々話を聞かないでくれと」

「事件後、確か約2週間ぐらい経ったころと思います。状況的にも捜査は・・・これがおかしいとか色々ありましたんでね、その中でどうしても・・・巧くんが知ってる中で淳くんをこのような被害にあわせる犯人、そういうの心当たりはないかという形で話を聞いておりますが・・・どういう状況かといいますと、まだ正常な状況じゃないですね。本当に話がぽつんぽつんと単語的に話すくらいで、なかなか向こうから文章的に言葉が返ってくるようなことはなかったですね」

 

【父・守さんのインタビュー】

「はっきりいって現実のこととは思えないような状況だったですね。まぁほんと映画の中のワンシーンといいますか、なんか夢を見ているような状況で・・・足が地についてるとはいえない状況だったと思います。まぁそれは現実なんだろうなというふうに理解しつつも、それを違うと思うような別の自分がいて・・・そんな感じの状況ではなかったかと思います」

 

【1ヶ月後の6月28日の警察会見】

「被疑者は神戸市須磨区居住の中学3年生A少年・男性・14歳です」

「顔見知りと承知しております」

 

 過去に例のない凶悪な罪を犯した14歳の少年は少年法の精神に則り、一般社会から隔離されます。その一方で被害者の家族はクローズアップされていきました。

 

【父・守さんのインタビュー】

「あの日、須磨警察から帰ってきて、当然、前の道も全部渋滞してる状況ですけども、帰ってきた時点でマスコミ関係者も待ち構えてたわけですよね。その前のマンションからはカメラで狙われているのが一目瞭然でしたんで・・・ずっと、こうカーテンを閉め切ったままの状況が、結局7月半ばくらいまで続きました」

  • その状況をどういうふうに思ってはりましたか?

「なぜ被害者がここまでされなければいけないのかっていうのは非常に疑問に思いましたけども、本当に異常な状態ですから・・・」

 

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】

  • 巧さんの印象というのはどういうふうにご覧になりましたか?

「部屋が(淳くんと)一緒でしたからね。一緒の部屋で寝て、一緒の部屋で勉強してましたのでね。そういう弟が突然いなくなるわけですからね。寂しいということと、常になんせ外に出ていく時は一緒に出て行ったような状況ですからね。寂しいと・・・」

 

 兄弟が机を並べていた子ども部屋。言葉の遅れていた弟は、努めて声をかけてくれる兄のことを「お兄ちゃん」「お兄ちゃん」と慕っていました。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

  • 淳くんがいなくなって、どういうふうな思いで過ごしてたんですか?

「・・・・・・何も頭がすごく考えようとしなかったし、それと同時にごちゃごちゃとしていて、まぁただ、すごい気分悪くて、何をしていいんか分からなかったし、いまだに思い出せないくらい・・・なんか・・・まぁ感情が渦巻いてたっていうか・・・・・・ただ、つらかっただけとしか言いようがないです」

 

 少年Aが奪ったものは弟の命だけではありませんでした。どんなに心許せる友人にも、これまで事件について話したことはありません。通りかかった漫才(ストリート漫才に遭遇)は偶然にも相次ぐ少年犯罪の匿名報道についてでした。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「まぁギャグはギャグなんて割り切り方ができるので楽しめましたけど、たぶん昔に見ていたら、やはり、そう軽々しく扱うなと怒っていたと思いますね」

「まぁ言うなれば自分から壁を作ってたと思うんですけど、やはり何も理解してもらえないというすごい壁を感じたんで・・・まぁ世間はすごく冷たいものだというのが分かりましたし、もう友だちを同じ目で見ることも出来なくなったし、同じ目で見てもらえることもなかったとは思いますし・・・やはり耐えられないものってやっぱりできてきたんで。まぁもともと相手も通っていた学校だし、すごく嫌だなあって・・・」

 

 弟を殺した少年は同じ中学の上級生。しかも、同じ卓球部に籍を置いていました。

 

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】※事件後かけつけた精神科医師(児童精神医学が専門)

「はにかんだような・・・少し、こう・・・笑みを浮かべて来られたんだけど、でもこれは、すごく気をつかってらっしゃるんだなぁということが分かりました。それは、そんな状況の中でそういった大きな事件を被った中で、笑みを浮かべるというのはすごく大変なことだと思いますし、そのために随分なエネルギーを使っているんだろうというふうに、その時は思いました」

  • 当時はもうすでに学校には行けてなかった?

「それが事件の現場でしょ?そこに行けるということの方が不思議ですよね」

 

 事件後、兄は学校に行きにくくなりました。担任教師が気づかい、頻繁に様子を見に来てくれましたが、3年生になってからは、ほとんど行くことができませんでした。「高校には行った方がいい」そう考えた父は、せめて家で勉強ができるよう家庭教師を頼みました。

 

【兄が通っていた学校の岩田信義校長(当時)のインタビュー】

  • 学校としてできることっていうのはないんですか?

「家に行って教えるとかね。まぁある意味では善意、極端な言い方をすると先生が勤務時間は学校で仕事をせないかん、あるいは部活の指導もせないかんし、翌日の教材研究もせないかん、たいがい夜になってから行くことが多いですけどね。まぁ家庭訪問してなんとか頑張って無理に出席日数をかせがせる場合もあるし、相手次第では勉強を具体的に・・・数学だけでもちょっとやってみようかとか、そういう場合もありますけど、実際に今の学校のシステムの中でそういうことを必ずやれということになると、ものすごく先生がしんどい、負担ですね」

 

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】

 「支えになれるようなことができないだろうかというふうに思った人たちは少なくないと思うんですね。ところが、そう思ってもなかなか行けないということ。それで、実際に私のことを覚えて下さってるとすれば・・・(溜息)そういったサポートがとても足りなかったんだろうというふうに思うわけですね」

 

 事件は家庭裁判所での非公開の審判に移されました。父は審判に出席して意見を述べたいと要望しました。しかし聞き入れられず、家族は蚊帳の外に置かれたままでした。さらに当時の少年法では16歳未満は刑事処分とはなりませんでした。そのため、少年犯罪史上もっとも凶悪な事件を起こしたこの少年も保護処分となり、医療少年院に送られることになったのです。

 

【当時の兵庫県警捜査一課強行班係長・武田秀一警部のインタビュー】

「色々くやしい思いはされていたみたいですね。名前が出ない、色んなことで質問にも答えてくれないと。で、それについては私の方から少年法とか色んなことがあるから、私の方が色んなことを教えてやりたくてもできないことはできないんやということを最初言いましたら、それ以後、そういう少年法の問題とかですね、自分のくやしい思いとか、それについては私にはもう、問いかけてくる質問してくるようなことはありませんでしたね」

 

 父が審判への立会を求めたのは、少年と直接向き合い、事件がなぜ起きたか知りたっかったからでした。現実を受け止めるためにも必要なことでした。しかしその希望は叶えられず、父の心から少年に会う意思は失われました。そして少年Aもまた、被害者の苦しみを正面から受け止める機会を失ったのでした。

 一方、国会では事件をきっかけに刑事罰を科す年齢を引き下げる動きをみせていました。父も参考人として出席しました。

【父・守さん】

「犯人が14歳、まともな裁判もないし、まともな罰も当然受けないし、殺された上に犯人に対する罰もろくにない。それで私たち被害者遺族が納得できるはずもない。そしてこの悲しみってのは絶対に1年やそこらで収まるもんでもないですし、こういう犯罪で失くした遺族っていうのは、まず一生この気持ちからは逃れられないというふうに思っております」

 

【父・守さんのインタビュー】

「たぶん大人であればね、2人の人間殺して1人は大怪我負わせて、それ以外の軽傷を負わせている人もおるわけですから、当然これに対する罰っていうのは非常に厳しいものになると思うんですけど・・・」

「それから比較すると納得するわけがないですから。一応日本は法治国家ですから、その法の中でやっていくしかない。で、問題があるところは皆で変えていく方向に持ってかなければいけないというふうに思いますね」

 

 反社会的価値観や性的サディズムがあるとされた少年A。少年院ではその治療と矯正教育が始まりました。少年Aのために精神科医や法務教官らが特別処遇チームを作り、赤ちゃんを包み込むような対応に努めました。次第に少年は「死にたい」一辺倒から「社会であたたかい人間に囲まれて生きたい」と思うまでに変化したといいます。

 

【神戸大学付属病院精神科・田中究医師のインタビュー】

「私が見ていた少年たち、患者さんたちの中で少年院に行った人たちっていうのを何人か見てるんですね。で、彼らは少年院の中でとってもいい体験して帰ってくる。自分の感情を初めて話すことができたとかいうふうにすごくポジティブに捉えてる人たちだったんですね」

 

 少年Aの更生が公費で取り組まれる一方で、兄には一切の公的支援はありませんでした。出席日数も足りず、公立高校への進学は絶望的でした。心に重い傷を負った兄を3年間、父が遠くの高校まで毎日車で送る日々でした。家族の力しか頼るもののない日々でした。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「更生してくれるようなら結構なことだとは思いますけど・・・・・・まぁ内心は、まぁどうして・・・弟はあんな目にあわされたのに相手側はのうのうと生きれて、社会的に保護されていて、まともな生活ができるのかなと思いますけど」

「もし本当に罪が償えると思っているなら、それは傲慢だと思うし、しょせん言い逃れに過ぎないと思ってますね」

「被害者には何の権利もなくて加害者に対してはすごく守ってくれるっていう・・・まぁ法律ではそうなってるのは分かってるんですけど、やはり法律は正義じゃないと思いました」

 

 なぜ被害者が救われないのか、被害者自身が声を上げ始めました。全国犯罪被害者の会では被害者自身が刑事裁判に参加できるよう署名活動をしています。父は大人の裁判が変わらなければ少年審判も変わらないと考えて、署名活動に参加しました。

 加害者が法で守られているのに、なんの手助けもない被害者。犯罪被害者の会の定例会では講師の弁護士に率直な質問が相次ぎます。

Aさん「刑務所で真面目にやりはったとかどうのこうのいうて出所させますわね。でも我々被害者にとっては全く分かれへんやんか。その中身っちゅーのは我々知ろうと思ったら知れるわけ?」弁護士「どういう判断でもって出所させたのかについては情報公開で出てくるのかどうかっていってもかなり難しいと思いますよ」A「情報公開はしてほしいな。被害者としては」弁「ただ、今言われている問題点については我々も全然議論してませんのでね」Bさん「満期になる前に出してあげくに、まぁ仮出所期間中に何かをすればどうなるんでしょうか?」弁「あのね、今の日本の社会が持ってるね、処罰の枠組みというは基本的には個人責任です」B「個人の責任は当然分かるんですけど、国家の権力として仮出所させてるわけですよね?」Cさん「そこらの責任感、わしらにとってはみんな何もない、日本社会のこういう、加害者に対するあれがあるからみんな怒ってるんですよ。出所状況も分からない、更生しても報告がないし、裁判にも関われないし、ということが全部溜まっていくから、無責任社会やっていうねん」

 

【父・守さんのインタビュー】

「自分が犯したことの酷さ、残忍さにしろ、被害者にどのような思いをさせたかということをきちんと、まぁ理解させるっていうことだと思うんですけどね。その上で理解した上で反省しなければ更生の「こ」の字にもならないと思うんですけど。ところてん方式で今までの少年っていうのは出してきたわけですから。そこは教育をしたってことが重要であって矯正教育を行ったっていうことが重要であって、実際にそれは更生されたかどうかっていうことは重要ではないというのが、今までの状況だと思いますから」

 

 そんな父の姿を見ながら兄にはまだ迷いがあります。「法律を変えても意味がない」と当初、父親の活動にも反対していました。進むべき道も見つからず、高校卒業後、しばらくは専門学校に通ったものの惑い続けていたのでした。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「漠然と・・・何をしていいのか、その当時も全然分からなかったし、日々もしたいことだけするみたいな、先のことは全然考えてなかったですね。まぁ勉強っていうのは必要なものだったとは思ってたんですけど、人の人生っていうのはすぐころころ変わるものですし、それに気付かされたんで、勉強しても意味がないみたいな・・・」

 

 兄が悩み続けている時、少年Aは東北少年院に行き、溶接技術を習い、危険物取扱者など4つの資格を取得していました。社会復帰に向けた準備が着実に進められていました。

 

 母は弟のための場所に花を絶やしません。両親は弟の墓参りを毎週続けています。ひまわりは弟の好きな花でした。

 今、少年Aの周辺では少年の更生のために被害者に向き合わせたいと考えています。しかし父が向き合いたかった時期と、少年の周辺が適当と思う時期とはあまりにかけ離れていました。

 両親にとってお墓は慈しんできた弟と向き合う大切な場所なのです。兄はお墓を見ると怒りで気分が悪くなります。「そもそも石の塊がなんなのか分からない」と言います。だから、週末のお墓参りには一緒に行きません。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

  • 罪を償うっていうことの意味っていうのはどういうことですか?

「自分はあの時何もできなくて、これまで何もしてこなかったので、何もできなかったので、まぁ正直なところ、一生償えないとは思います。罪の意識があった方が弟の思い出は消えないので・・・自分でも罪は償えないと思います」

  • 巧くん自身にそういう気持ちがあるってこと?

「も、ありますね」

  • どうして?

「やはりあの時祖父の・・・いまさらなんですけど、まぁ、あの時やはり一緒に出かけていれば・・・もしもという、自分がちゃんとしていればっていうのは、どうしても思ってしまうので。自分が守ってやることができなかったので・・・まぁそこが自分の罪だと思っています」

  • そんなふうに思っていることを家族に話したことってありますか?

「(沈黙)・・・話したことはないと思いますけど、家族全員がそう思ってると思います」

 

 5月24日あの日の午後、家はいつもと変わらない雰囲気でした。「おじいちゃんとこ行ってくるわ」と出かけようとした弟に、自分は親との会話を中断して玄関まで見送りに行きました。弟は「行ってくるわ」といつものように笑顔で言い、自分は一瞬「一緒に行こうかな」と思いました。しかし中間テスト前だったため行くのをやめ、そのまま見送りました。これが弟を見た最後でした。

 

 少年のプライバシー保護をうたう国は被害者にも少年の情報を伝えていません。しかし、事件の重大性と父の強い求めに応じて、法務省は仮退院前に少年Aの更生の状況を説明してきました。そして仮退院に関しては、当日電話で通知するという異例の約束をしたのでした。

 事件から7年、治療成果を見るために少年Aと面会した外部の医師はハキハキとした礼儀正しさに作り直された人工的な印象を覚え、壊れやすい温室の花を想像したといいます。

 

【ナレーションにて会話再現】

  • 遺体を傷つけたことについては?

露悪的なことを言っていました。事実を曲げて言ったところもあります。血を飲んだ話は作り話です。でも頭部を切断したのは事実です。

  • 新聞社への手紙は?

異常な殺人者であることを定着させたかったんです。引くに引けませんでした。どこにも持っていけない怒り、社会や学校に対する・・・それを吐き出したいと思いました。

  • 死んでおわびするしかないと思ったことはありますか?

そう考えたこと・・・あります。淳くんのお父さんの書いた手記を読んで、自分は生きていて良いのかと思いました。

  • 淳くんへのつぐないは?

まずはお手紙を、お父さんに書こうと思います。会ってくれるのであれば会ってみたいと思います。

  • あなたはずいぶん変わったけど、どういうことで自分が変わったと思いますか?

まず一番は、この少年院で話ができる精神科医の先生がいて、その先生と話をしていて心を開いて、色んなことを学ばせてもらったと思います。

 

【父・守さんのインタビュー】

「矯正教育が進んで改善してるっていうことの説明を受けました。何をもって更生という判断をしてるんかっていうのを一応質問したんですけども・・・難しいね」

 

 この春、およそ70万人の若者が大学や短大に進学しました。新たなスタートとなる4月です。高校卒業から2年経ったこの春、兄は大学生になりました。そしてもう一つ新しいことに踏み出そうとしています。全国犯罪被害者の会の活動に参加するのです。東京の幹事会に出席する父について行くことにしたのです。

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「自分は正直、力がない人間ですから何も。だからもしこういうのに入って、自分がそういうのの一端でも担うことができるならと思って。まぁ二十歳になりましたし」

 

【父・守さんのインタビュー】

「そういうことが考えることができる心の余裕ができたのかなと。まぁ上の子は僕より背高なったし、10cmほど低かったのが10cmほど高くなっちゃったんかな。時間は確かに経った。でも亡くなった子どものことを考えた場合、そんなに経ったって感じはほんとにしない」

 

【兄・巧さんのインタビュー】

「将来したいこととか多少見えてきたんじゃないですかね。それまでは全然分からなくて、こう自分・・・なんていうのかな、流されるままの人生だったような気がしたので、やはり変えたいなと」

 

【父・守さんのインタビュー】

「まぁ私たちのやってることを見て何も感じない、何も思わないということはそれはそれでいいと思いますし、それを見て自分なりに考えて行動を起こすというのも重要なことだと思いますので」

 

【少年Aの仮退院を告げる電話】

「あ、もしもし。あ、土師ですけども。はい、どうも」

「本日、先ほど関東庁拘置所の委員会の田中課長から連絡がありまして、本日関東医療少年院を仮退院をしたと午前9時5分に仮退院をしたという連絡が入りました。移住先は近畿地方ではないということで」

「それ以外のことは特に?」

「それ以外のことは、ご要望があれば仮退院のいきさつ等については、後日ご説明をしたいと。すべてを説明できるかどうかは分からないけども、説明をしたいと。時期、場所等についてはまだ未定ですと」

 

【会見】

「本日午前中、いわゆる神戸連続児童殺傷事件の加害男性について、関東地方更生法委員会において仮退院許可の決定を行い、これに基づき本人は仮退院しました」

 

 父は一度も記者会見を開いたことがありませんでした。息子の命を奪った少年が社会に戻ってきたこの日、父は初めての記者会見にのぞみました。

 

【父・守さんの記者会見】

「特に私たちの事件っていうのは非常に、まぁ特異な事件であったということもありまして○○*1も含め開示していただきましたけれども、少年事件でも、まぁ成人の事件と同じように○○情報、まぁ居住地情報ですね、少なくともその手の開示は、やはりしてほしいと思います。ですから私たち子どもの事件だけではなくって、他の少年事件全般に対してそういう制度を早急に作って欲しいというふうに思っています」

 

【兄・巧さんのインタビュー】

  • お父さんっていうのはね、納得しているように見えましたか?

「納得してたら、ああいうことはそもそもしてないですし、まぁとてもやりきれない思いっていうのをすごい抱えているんだな・・・十分に伝わりますし。よくまぁあそこまでできる人だなぁと自分の父ながらすごい思います」

「ずっと気持ちを踏みにじられて続けてて、耐えに耐えた上でようやくとれた小さな成果だと思います。まぁ小さいけど、すごく大きい一歩だと思ってます」

 

 少年Aは今年12月31日、正式に少年院を退院。自由の身となる予定です。家族にとって新しい苦悩のはじまりでもあります。

 

*1:聞き取り不能