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カズオ・イシグロの文学白熱教室【ノーベル文学賞受賞決定!】-後編-

[まとめ買い] カズオ・イシグロ作品

 

物語を記憶を通じて語る

それでは次に「物語を記憶を通じて語る」というテーマに入りたいと思う。

 これは物語を語る上でフィクションで使われる一つの手法で、テレビドラマや映画とは全く違うものだ。

紙の上でしか描くことができない。

読者も小説を読まないとこれを体験できない。

だから私は小説を読むべきだと言えるのだ。

 

この体験は、小説という形だからこそ得られるもので、他の形では得られないからだ。

こうして私はこの手法を用い始めた。

筋書きに固執して時系列に話を展開することよりも、語り手の内なる考えや関係性を追って書き出した。

ジャーナリストなら信頼できないことは最悪だ。

だがフィクションでは信頼できないことで面白いことが起きる。

 

例えば人間は何かを思い出す時、その記憶はゆがめられている。

不愉快なことはすり替えている。

自分を少し誇張したりもする。

フィクションで記憶を取り入れることによって「なぜ人は信頼できないんだろう?」という疑問が湧き上がる。

 

「どういう時に信頼できないのだろうか?」

「何かを隠そうとする理由は何なのか?」

「逃げ出そうとする理由は何なのか?」

「なぜ物事を変えたいと思うのか?」

 

私は「信頼できない」ことは、小説家にとって非常に力強いツールだと思った。

私が言う「信頼できない」とは、私たちの現実の世界で起きていることだ。

人は真剣な話、重要な話をする時、実は信頼できないのだ。

10代になれば、あるいは大人になればなおさら、我々はある種の達人になっている。

私たちに語りかけている人は信頼できる語り手じゃないと分かっている。

 

例えば学生時代の友人にばったり出会って、君はこう言う。「やあ、元気にやっているか?離婚したって聞いたよ」

「ああ、でも離婚してよかった。これ以上最良な方法はなかったよ。前より自由になったし、人生も上向きになってきた」と友人が答えたとしよう。

よほどの馬鹿者じゃない限り「ああ、よかった。大丈夫なんだな」と思う人はいないだろう。

それは「方便」だと分かっているからだ。

 

人は本心を明かさず、少し飾って話すことが多い。

そんなことから、私たちは社会で生きているだけで物事を読み取る達人にもなっているのだ。

だからフィクションを書いている時、信頼できない語り手や信頼できない物語の進行役を用いると、読者は読み取るスキルを使うことになる。

現実の世界で自分を取り巻く世界や人に対して使うように。

 

私が非常に興味を持っているのは、人が自分自身に嘘をつく才能だ。

他人に嘘をつくつもりがなくても、本当ではないことを言ってしまう。

そのような信頼できない状態は、フィクションを書くにあたって非常に有効で、フィクションにピタリとはまる手法だと思う。

 

「物語を伝える形式は物語のテーマによって変えるんですか?」

 

もちろん、ある程度はそうだね。

1人の登場人物の記憶を通じて語るという手法に、私は引きつけられている。

取りつかれていると言ってもいい。

それは、私のテーマにぴたりとよく当てはまるからだ。

 

特に興味を持っているのは、人はどのように自分と向き合うのか。

どのように自分の人生を評価するのか。

どのように不愉快なことを避けるのかということ。

 

最近さらに興味を持ったのは、社会全体がどのように自分たちを欺くのか。

あるいは意図的に忘れようとしているのか。

それとも記憶にとどめたままにするのか。

急に忘れたことを思い出したりもする。

それは、社会の政治的な目的にかなうからなのだ。

 

「記憶の本質的なあいまいさに向き合うことと、過去の歴史的な社会的な罪に対して責任を負うことについてどのようにお考えでしょうか?」

 

それに対する簡潔な答えはないだろう。

答えは見つからないかもしれない。

過去にしでかした過ちに、いつ向き合うのがいいというのは難しい。

個々のケースは理解可能だ。

 

もしそれが凶悪なことだったり、明らかに犯罪だったりしたら話は違ってくる。

だがほとんどの人は長い人生を歩み、ある年齢に行き着くと「後悔が何一つない」ということはあり得ない。

ある程度年を重ねれば、してきたことの全てに満足している人はほんの一握りだろう。

 

人はいつも罪の意識を持っていたり、もっとこうすればよかったと思っているはずだ。

だから私は同情も共感もする。

「それを振り返りたくない。振り返らなくても別にいいだろ?」という自分たちに。

「自分にできることはもうない。このままにしておこう」と。

これは人間くさいことだ。

 

社会においても、いつ思い出すべきで、いつ忘れるべきなのかと知るのは非常に難しい。

もし過去に恐ろしい事件が起きて、それが正義という観点からすれば、忘れてはいけない過去の出来事として葬り去るのは間違っているとしよう。

だがこのことを深く考え始めると、この問いそのものが難しいと分かる。

 

フランスを例にとろう。

第二次世界大戦中、その時代に戻ってみよう。

フランスは第二次世界大戦中ほとんどの期間、ナチス・ドイツに占領されていた。

往々にしてフランス人の多くがナチス・ドイツの協力者となり、ナチスを助けていた。

フランスのどの村でも、誰かがレジスタンスをナチス・ドイツに売っていた。

ナチス・ドイツの圧力は大したことなかったはずなのに、フランス系ユダヤ人を強制収容所へ送り込んだ。

 

そして戦争が終わった。

フランスはこれらの記憶、つい最近起きた出来事の記憶をどうするべきか決断する必要があった。

しかもこの記憶は、社会の奥深くに刻み込まれていた。

どの町でもどの村でもどこの誰がナチス・ドイツに協力していたのか知っていた。

誰がレジスタンスに身を投じて敵に売られたのか知っていた。

 

ド・ゴール大統領は意図的な決断をした。

社会の連帯を守るために、社会を崩壊させないために。

「この国が再び強くなるまでのしばらくの間、国民全員が勇敢なレジスタンスだったという物語を信じよう。全員が戦ったのだ。全員がナチス・ドイツに立ち向かったのだ。その後に連合軍によって解放されて、最後まで勇敢に戦ったと信じよう」

今でもフランス人の多くはそう信じている。

 

私は理解できる。

そんな嘘をつき続けるのは恥辱だとする一方で、そんな嘘がなければ国家が崩壊するという最悪な事態になりかねない危機的な状況だったと。

非常に複雑な問題だ。

これに対して一般論で答えようとは思わない。

それが社会に対することでも、個人に対することでも。

これは社会と個人が直面する永遠の課題だと思う。

いつ忘れて、いつまで忘れるのか。

いつ勇気を持って、暗い記憶を明るい場所へ引きずり出すのか。 

大きなメタファー(隠喩)

それでは、次に「メタファー」比喩について話したい。

比喩のことはみなさんも知っていると思う。

狭い意味での比喩について話したいのではない。

いわゆる直喩は、皆さんも会話や文章の中で使うから知っているね。

 

私は作家として、小説全体を支配するような大きなメタファー、隠喩に惹かれる。

私はよく小さなアイデアをノートに書き込み、そしてどれが力強いか見比べる。

それがアイデアが力強いかどうか決める、私なりの方法なのだ。

自問することだ。

「これは本当に何か重要なことの力強い比喩になり得るのかどうか。この物語はとてつもなく大きな比喩になるのだろうか」と。

 

私の最新作『忘れられた巨人』

まだ読んでいない人もいるだろうから、全体の筋立ては明かしたくないが、少しだけ話そう。

舞台は大昔のイギリスに設定してある。

奇妙なことに、人々は年齢と関係なく出来事を忘れていく。

子供も若者も、昨日の出来事や1時間前の出来事すら思い出せないのだ。

ただただ思い出せない。

記憶が消えてしまっている。

 

これが社会問題となっていた。

徐々にその理由が分かってくる。

それはドラゴン、竜のせいなのだ。

竜は近くの山の上に住んでいて、その竜の吐く息が記憶を失わせるのだと。

 

これが人々の間で対立を生む。

かけがえのない記憶を取り戻すために竜を殺そうとする人々が一方にいる。

他方で竜を守ろうとする人々もいる。

なぜなら、竜を生かしておけば、嫌な記憶、暗い記憶を忘れたままでいられるからだ。

 

実際、この社会が内戦状態に陥らないのは、竜の吐く息のおかげかもしれない。

一世代前に起きた恐ろしい出来事の記憶は、普通の記憶やいい記憶と共に忘れられている。

だが、かけがえのない記憶を取り戻したがっている人がいる。

老夫婦がこう言うのだ。

「私たちは深く愛し合っているが、もしこの大切な記憶を失ったら、愛情までも失われてしまうのではないか?失いたくないから記憶を取り戻したい」と。

こういう物語だ。

 

私はこの問題に非常に興味を持っている。

日本やアメリカやイギリスにも当てはまる。

紛争があったルワンダや、南アフリカにも。

南アフリカにはアパルトヘイトの記憶がある。

分裂した旧ユーゴスラビアにも当てはまる。

多くの社会に葬り去られた記憶があるのだ。

これは非常に難しい問題だ。

いつ思い出して、いつ忘れた方がいいのかと。

 

この問題は個人の人間関係にも当てはまる。

例えばうまくいっている結婚生活でも、忘れた方がいいという記憶がある。

だが時々長い間記憶を隠しておくと、ある時問題となって現れる。

だから実際、思い出した方がいい時もあるのだ。

このような物語、このようなアイデアは、それ自体が何かの大きなメタファーとなる。

 

『日の名残り』は、私にとっても面白いケースだった。

一石二鳥だったからね。

イギリスの執事のイメージは世界的に確立されていると思う。

イギリスの執事に会ったことがない人でも、厳格で礼儀正しいという典型的なイメージを持っている。

 

私はこれを2つのメタファー、隠喩に使えると思った。

完璧な2つのメタファーになった。

一つは、ある程度誰もが持つ感情を表すことの恐れだ。

愛や友情、人との関係の中で感情をあらわにして、傷つくことを恐れている。

職業人に徹して感情を封じ込めた方が傷つかず、安全な時がある。

その意味で、執事は感情の抑圧や恐れの比喩にぴったりだ。

 

同時に別の意味でも執事は完璧な隠喩になると思った。

政治権力に対する、私たちの関係の隠喩にだ。

私たちの多くは大統領でもなければ、有力な政治家でもない。

大企業のCEOでもない。

 

私を含めた多くの人々は、ただ自分の仕事をするだけだ。

ただ仕事をして雇い主に、雇用先の企業に、国家に、大義に貢献するだけだ。

そしてその貢献が役立つことを願う。

自分の仕事を全うして、自分のプライドや尊厳を保っている。

 

でも、それが上のレベルで活用されているのかどうかは分からない。

私たちはただ、上にいる人たちが役立ててくれることを願っている。

だが小さな世界に住む私たちは、自分たちの貢献が役立っているのかが見えない。

そのような意味で道徳的にも政治的にも、私たちも執事であると伝えているのだ。

これも大きな隠喩の例だね。

物語全体がメタファー、隠喩としてうまく働いたと私は手応えを感じている。

 

私が好むメタファーは、読者がそれが比喩だと気付かないレベルのものだ。

物語に夢中になって物語の行き先ばかりに気を取られて、その背景を冷静に分析したりしないで済むような。

そして本を閉じた時に、あるいは思い返した時に気付くかもしれない。

人生に直接関係する何かの隠喩だったから、この物語に夢中になったのだと。

そのようなメタファー、隠喩が力強く威力を発揮する。

 

「フィクションは基本的に嘘だという話に興味を持ちました。同時に普遍的に当てはまる事実を書くだけの作家としては認識されたくないと話されましたね。小説家の仕事は事実を伝えることなのでしょうか?それとも嘘を伝えることなのでしょうか?」

 

実は意識して「嘘」という言葉は使わなかった。

「嘘」とは意図的に相手を惑わせるものだ。

それに私は、意図的に読者を惑わす内容のフィクションは好きじゃない。

それがプロパガンダだったり、ただの感傷的な内容だったりしたとしても。

人生を実際より楽だと思わせるような内容は好きじゃない。

だから「嘘」は嫌いだ。

 

確かに私は「事実じゃない話を創り上げる」と言った。

事実じゃない話は・・・もちろんどんなことか分かるね?

創られたものだ。

そこで最初の問いの核心に触れることになるが、私たちが小説に価値があると思うのは、それに何らかの重要な真実が含まれているからだ。

少なくとも、私たちが価値あると思う小説はそうだ。

完成度が非常に高い小説や詩には、そのような形でしか表せない何らかの真実が含まれている。

 

そこでこの問いがある。

「真実とは何か」

それは一体、どんな真実なのか。

それは月並みな事実ではない。

「いついつにドイツがフランスに侵攻した」といったような事実のことではない。

 

では、真実とは何だろう?

これが小説に価値がある理由だ。

長い歴史を通じて、人間は洞窟の中でもたき火を囲んで様々な物語を語ってきた。

悲惨な戦争のさなかでも、人々は互いに物語を伝え合ってきた。

それは、ある種の真実を伝える手段だったからだ。

 

真剣に、読者たりえたい、小説家たりえたいならば、常に自らに問いかけなければならない。

「この物語に重要な真実は含まれているのか?」

その真実とは・・・私は哲学者ではないから正確な答えは持っていない。

ただ真実とは、人間として感じるものだと思う。

たとえその小説が現実とは違う事象を語っていたとしてもね。

 

語られる体験や伝わってくる感情を、私たちは真実だと認識する。

そして小説では時にとても重大な心情や気持ちを伝えられる。

だが事実にだけ基づいた本やノンフィクションでは伝えきれないものだ。

ここで最も重要な点は、小説は特定の状況で感じる気持ちを伝えられるということだ。

 

歴史書やジャーナリズムでは状況を伝えることはできる。

例えば、ある時代のある場所で人々は飢えに苦しんでいたとしよう。

だがその苦しみ、飢饉のせいで愛する者や子供を失った苦しみは伝えられない。

「ある時代のある町のある場所で人々は飢えに苦しみ死んだ」という事実だけでは、人間は不十分だと感じるのだ。

 

私たちはどう感じたのかを伝えてほしいのだ。

どうしてか分からないが、それが人間の本能なのだと思う。

それが真実というものだ。

 

本当に感じられるのか。

その状況にいるかのように感じられるのか。

さもなければ、真実ではないのか。

これを常に自問する必要がある。

事実だけを述べたノンフィクションでは物足りないと思うから、小説という形がとられるのだ。

 

さて、刺激的な対話を持てたから、まとめは必要ないようだね。

皆さんが素晴らしい聞き手だったことに感謝したい。

皆さんから鋭い洞察力と、思慮深い質問や意見をもらって、これほど助けられるとは思いもよらなかった。

心から感謝している。

 

最後に少しだけ言わせてもらいたい。

「なぜ小説なのか?」

「なぜ小説を読むのか?」

「なぜ、他のじゃなくて小説を書くのか?」

という問いかけに戻る。

明確な答えはないが、なぜ小説に価値があるのかという理由を幅広く論じたね。

 

仕事が忙しかった一日の終わりに読む娯楽以上の価値がある。

個人的なことになるが、長年執筆活動をして気付いたことがある。

自分が小説を書く上で重要なことは、心情を伝えることなのだと。

知的な意見を伝えたいわけでも、何かについて議論したいわけでもない。

偶然にそうなってしまったら、それはそれでいい。

 

基本的に私はとてつもなく大きく、とてつもなく重要なことに対する思いを伝えたいと思っている。

尊敬する作家の作品に対しても、この点を大切にしている。

映画や音楽やどんな形の芸術に対してもだ。

自分たちの体験に対して、人間としての感情を分かち合うことは非常に重要なことなのだと思う。

 

人間は社会で経済活動するだけでは不十分なのだ。

心情を分かち合う必要がある。

私が小説を書く時は、こう言おうとしているのだ。

「私はこのように感じた。それを書いて、君に見せている。君も同じように感じるのか。私がここで表現しようとしていることを少しは理解してくれるのか。思いが伝わるのか。私はこう感じたんだ」と。

 

私も他の作家の小説を読む時、このようなわけで作品に感謝しながら読んでいる。

「自分がその心情を理解できるように表現してくれてありがとう」と。

私は小説のこの点を最も大切にしている。

この世界を生きていく人間として心を分かち合うことを。

ありがとう。

 

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